日本の女性オリンピック選手
皆さんは知っている陸上選手は誰と聞かれたらどう答えますか?100mで有名な桐生選手やサニーブラウン選手でしょうか。マラソンで有名な大迫選手が思いついた人もいるのではないでしょうか。
では、女性の陸上選手に限定されたら誰が思いつきますか。一番有名なのはQちゃんことマラソンの高橋尚子選手でしょうか。ほかにも野口みずき選手など多様な選手がいます。
それでは、日本で初めてオリンピックに出場した女性選手のことを皆さん知っていますか?その人はNHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』に出てきたキャラクターなので、ご存じの人もいるのではないでしょうか。その人の名は人見絹江といいます。
1920年代、日本は第一次世界大戦が終結し戦勝国として国際社会においての発言力を増しており、国内においても近代化が完了しつつあり西欧諸国と肩を並べようかとしていました。そのような状況で国際社会に日本の大和魂を見せつけた女性スポーツ選手こそ、人見絹江なのです。人見絹江の人生はどのようなものだったのでしょうか、彼女の華々しい記録と儚い人生を一緒に見ていきましょう。
高校時代からスポーツ万能
1907年1月1日、岡山県に人見家の次女として生まれました。小学生のころから活発な少女で男友達と元気に遊んでいました。成績優秀で1919年には尋常小学校高等科に進み、女子は学問をする必要はないと言う考えが一般的な時代に、父は高等女学校進学を勧めたので人見絹江は岡山県立岡山高等女学校に1920年進学しました。
岡山高等女学校に進学すると、校長の意向で全員がテニスなどのスポーツの大会に出場しなければならず、人見絹江はペアを組んでテニス大会に出場しました。一年生の時、当時中国地方最強と言われていた岡山女子師範学校に決勝で敗れたが、その悔しさから猛練習を重ね2年生の時には岡山女子師範学校を見事に破り、母校に優勝旗をもたらしたのです。
スポーツ万能な人見絹江は4年生の時陸上競技大会の出場を頼まれました。岡山高等女学校代表として出場すると、初めてにもかかわらず走り幅跳びで4m67という記録を出し、非公認ながら当時の日本最高記録で優勝を修めたのです。ここから人見絹江は陸上選手として活躍していくのです。
陸上選手としての人見絹江
岡山高等女学校の校長からの強い勧めで東京の二階堂体操塾(現在の日本女子体育大学)に入学しました。入学したその年には三段跳びで10m33を跳び、当時の世界記録を樹立しました。(現在は非公認記録)
二階堂体操塾を卒業後も1925年に京都市立第一高等女学校の体操教師に就任するなどしつつ、数多くの日本国内の大会に出場し三段跳びでまたしても当時の世界記録である11m62を記録するなど陸上選手として活躍していました。そして、1926年には大阪毎日新聞社に入社し陸上選手として様々な大会に出場しました。相変わらず、三段跳びでは無類の強さを誇っていましたが、それだけではなく砲丸投げでも日本記録を樹立するなどその才能をとどまることを知らず、ついにはフィールド競技だけではなくトラック競技である200mにおいても27秒6という当時の日本最高記録を出したのです。
国内の大会では敵なしとなっていた人見絹江は第二回国際女子競技大会に日本人として唯一出場した。そこで立ち幅跳びで優勝し、走り幅跳びでは5m50の世界記録を樹立し優勝した。円盤投げは2位、100ヤード走は3位、60m走で5位、250m走で6位という素晴らしい結果を修めたのです。ここで個人総合獲得得点1位として名誉賞に輝き国際社会から称賛されました。日本に帰ってくる際、多くの人が人見絹江の歓迎のために集まったそうです。
また、人見絹江は国際大会に参加することで他国における陸上競技における練習法や環境の整備などの重要性を目にし、日本における女子スポーツの地位向上の大切さを痛感したのです。
日本人初の女性オリンピック選手
初めての国際大会を優秀な成績を修めた人見絹江は帰国後も国内大会で無敵の強さを誇っていた。1927年には50mや100mで世界最高記録タイを出し好調を維持すると、1928年には100mでは12秒2の世界記録(非公認)を出し、さらには走り幅跳びでは5m98の世界記録を樹立しました。また、あまり走った経験のなかった400mでも世界最高記録である59秒0を記録しました。
1928年は国際大会として一番大きな大会が開かれました。アムステルダムオリンピックです。このオリンピックは陸上競技世界のなかで大きな意味を持つ大会なのです。なぜかというと、このオリンピックで初めて女性選手が陸上競技に参加することが認められスポーツ界における男女平等が進んだ偉大な大会だからです。
日本はこの大会に選手43名、役員13名の代選手団を送り込みました。その中で唯一参加した女性選手こそ人見絹江なのです。つまり、人見絹江は日本人初の女性オリンピック選手なのです。
この大会で人見絹江は100mに全力を注ぐ作戦を立てていました。なぜなら、100mで非公認ながらも世界記録を出していたため金メダルを取る可能性が高く、アムステルダムの地に日の丸を掲げられるかもしれないとその光景を夢見ていたためです。
予定通り、人見絹江は100m予選をトップで通過しました。しかし、準決勝は組4位という着順でまさかの決勝進出ならずという結果に終わってしまった。人見絹江は今までの陸上競技人生のなかで決勝にすら出られない敗北は初めてであり、合宿所に戻ると夕食も喉を通らず部屋にこもって大声で泣いたのです。
しかし、人見絹江は敗者の悔しさにいつまでも沈んでいるわけにはいかなかったのです。負けたまま日本に帰国するわけにはいかないと、本来の予定では100mに集中し棄権する予定だった800m、走り高跳びに出場することを決心したのです。走り高跳びは苦手としていた種目でありメダル獲得の可能性が低く800mでメダルを取ることに狙いを定めたのです。しかし、人見絹江は800mのレースに出場したことがなく100mや200mとは全く異なるレースになることは簡単に予想がついたからです。それでも、日本にいい報告をするために覚悟を決めなければなりませんでした。
800m予選は無事に終わり決勝進出を決めました。翌日に決勝を控えた人見絹江は必死に寝ようとしても不安で体が震えてしまいます。練習をつめていない800mで見事完走しメダルを日本に持ち帰る自信がわかなったのです。
800mの決勝では、最後のスパートで勝負を決める作戦を人見絹江はとりました。800mは1周400mの陸上競技場を2周します。最初の1周を9人中6位で通過した人見絹江は、そこからペースを上げて最後の200mの地点で3位に立ちました。そして最後の直線の100mで2位をかわし、トップを走るドイツのリナ・ラトケ選手と壮絶な死闘を繰り広げました。惜しくも、人見絹江は2位でゴールとなってしまいましたが見事銀メダルを獲得し100mの雪辱、そして日本へメダルを持ち帰るという悲願を果たすことができたのです。人見絹江はラスト100mの記憶はなく、気が付いたらレースは終わり日本の仲間に運ばれていました。限界まで走りメダルをつかんだ人見絹江の姿は、観戦していた日本人だけでなく地元の人々にも大きな感動を与えていたのです。
こうして、人見絹江は日本人初の女性オリンピック選手であるだけではなく、日本人初の女性オリンピックメダリストでもあるのです。
24歳の若さでこの世を去る
人見絹江は銀メダルを獲得し、日本国内で称賛されました。しかし、女性がスポーツを行うことに対する偏見は根深く、スポーツに取り組む環境が整っていないままでした。
そのため、人見絹江は練習だけでなく講演会など陸上以外の仕事が増え、女性スポーツ選手の地位向上のため休みなく様々な仕事に取り組んでいました。しかし、無理がたたりアムステルダムオリンピックの3年後に肺炎にかかってしまいます。この肺炎が原因で人見絹江は24歳という若さでこの世を去ることになってしまいました。人見絹江は死の間際でさえ、自分の死が女性スポーツ界にとってマイナスにならないだろうかと心配していました。
人見絹江の命を燃やして走る姿は日本人だけではなく、世界中に深い感動を与え日本の大和魂を世界に知らしめたのです。選手として大会に出るだけでなく、女性のスポーツにおける地位の向上を目指し駆け抜けた偉大な女性陸上競技選手こそ、人見絹江なのです。
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